画像電子学会
The Institute of Image Electronics Engineers of Japan
  年次大会予稿
Proceedings of the Meida Computing Conference

画像情報が支える有名性
Celebrity encouraged and promoted by image information technology

−広告塔の近代史−
−Historical aspects of celebrity symbols−

小町 由香里
Yukari KOMACHI

ADAGIO研究所    ADAGIO Laboratory

E-mail: yukari@y-adagio.com

1. 問題商法と広告塔

問題商法が社会問題化,事件化した際,広告塔になっていた有名人の責任がしばしば取り沙汰される.図1はそうした折に広告塔の有名人がどのような言い訳をしたか,過去10年間の週刊誌記事を参考にまとめたものである[1].国立国会図書館の雑誌記事検索において「悪徳商法」「悪質商法」「問題商法」などの語句でヒットし,かつ「広告塔」でもヒットした週刊誌記事が対象である.対象記事の約6割はネズミ講もしくはマルチ商法(マルチ商法まがい含む)の広告塔に関するものであった.

ネズミ講やマルチ商法における広告塔問題は今に始まったことではない.たとえば1970年代に深刻な社会問題を引き起こした元祖ネズミ講「天下一家の会」の肯定派書籍(いわゆるヨイショ本)見ても,各種有名人が続々登場している[2].70年代以降もネズミ講やマルチ商法における広告塔問題は後を絶たない.広告塔はギャラの返還や芸能活動等の一部自粛を余儀なくされることはあってもそれ以上の追及を受けることはほとんどなかった.しかし,2008年5月,円天の広告塔となっていた歌手や学者に対して被害者から損害賠償を求める訴訟が起こされた.広告塔の責任問題について新たな展開を期待する声も多く,裁判の行方が注目されている.

   
図1 広告塔の言い訳 (注)小町,2008より転載 図2 マルチ組織の広告に登場する有名人の種類
(注)小町,2008より転載.「月刊ネットワークビジス」
2002年1月号〜2007年6月号.計66冊の分析による.

図2はマルチ商法の広告に登場した有名人を分類したものである[3].スポーツ選手が一番多く約4割,次が芸能人で約3割を占めている.ネズミ講やマルチ商法の広告宣伝活動においては,「Aさんも使っている,会員になっている」等,有名人本人が知らないうちに名前を使われるケースや組織のイベントなどに参加して広告塔の役割を果たすケースもあるが,図2の場合は正規の広告が対象である.

広告塔(プレゼンターあるいは商品推奨者と呼ぶ研究もある)が消費者の意思決定に与える影響については,社会心理学,コミュニケーション研究,広告研究の分野で研究が続けられている.大多数は一般企業の広告宣伝効果に関する研究成果だが,問題商法の広告塔を論ずる際にも有益である.

この発表では明治以降の有名人広告の成り立ちと変遷を検証する.有名人広告の歴史をたどることで,私たちが現在置かれている状況がより明確に示されると考えたからである.「近代以降、固有名を持った『個人』が現れた[4]」という.有名人は印刷技術,画像技術,映像技術等に支えられたマスメディアの発達とともに近代社会の中で生まれ育ったものである.

具体的には次の順で論を進める.「有名性とは何か(先行研究から)」「印刷技術,画像技術,画像電送技術の発達」「有名人広告の近代史 @スポーツ選手と広告(サロメチールの広告を例に)」「有名人広告の近代史 A女優と広告(クラブ化粧品の広告を例に)」「考察」「まとめ」.

2. 有名人とは何か−先行研究から

「有名人」はよく使う馴染み深い言葉であるが,その定義は思いのほか難しい.広辞苑にも大辞林にも「有名人」という言葉は掲載されていない.

P.D.マーシャル(1997)は,「公的領域において、ある一群の人びとは他の人々よりも大きな存在であり、広範囲な活動とより大きな影響力を有している。[……]それ以外の人々が人口統計学的な固まりとして存在するのと対照的に、彼/彼女らは個人として比類なき存在として、自身を表現することが許されている。私たちは、そういった明らかに公的な個人を<有名人>呼ぶ傾向がある[5]」と書いている.

石田佐恵子(1998)は著書『有名性という文化装置』の中で,ある法律分野の本における定義を一例としてあげ紹介している[6].

(有名人とは)「メディアに登場することで広く人びとに知られているような人物。マス・メディアによって 『プライバシーはない』と考えられているような人びと。たとえば、(1)政治家、(2)芸能人、(3)スポーツ選 手、(4)官界・実業界の人物、(5)著述家・教育者、(6)社交界の人物、(7)犯罪容疑者、(8)犯罪被害者、(9)注 目すべき事件の関係者」(山田・山川(編)[1987])。[7][注]原著のタイポを修正して記述

井上善友(2003)は,「有名人」の再定義が必要と述べ,有名性を示す指標として認知率や検索エンジンのヒット数を用いることを提案している.また,多メディア化はオーディエンスの数によるメディアの序列「地上波テレビ→BS放送→CS放送→ケーブルテレビ→インターネット」を強化し,地上波の出演者へ対する視聴者の目線は以前よりあがったのではないかと指摘している[8].

表1は,石田佐恵子の前述の著書の第2章“メディア、<有名人>、セレブリティ・ビジネスの歴史”の要旨を一覧表にまとめたものである.19世紀には有名人とは天才やカリスマ的存在のことであった.その後マスメディアの発達により「誰もが有名人となる潜在的可能性」の時代が訪れ,現在はさらに有名人の種類も数も増加している.

表1 メディア、<有名人>、セレブリティ・ビジネスの歴史 (注) 石田佐恵子著『有名性という文化装置』第2章“メディア、
<有名人>、セレブリティ・ビジネスの歴史”の要旨をまとめたもの

19世紀 活字ジャーナリズムと肖像画の時代
   有名人:天才、カリスマ的存在
20世紀前半 映画の時代 ─ 印刷された名前に視覚的側面が付加された─ [注] E・モランによる時代区分と変遷(ヨーロッパ・アメリカを中心に)
 1) 1900〜30年 無声映画の時代 
 2) 1930年〜55年 有声映画・ハリウッド映画の黄金時代
 3) 1955年〜 ヌーヴェル・ヴァーグ 映画産業の衰退を契機として
20世紀後半 テレビ・メディアの時代 [注] 石田佐恵子による時代区分と変遷(日本を中心に) 
 1) 1946〜60年(昭和21年〜35年) 映画スターの時代 <テレビの高度普及以前>
   映画・ラジオのオリンピック中継・歌謡曲が「国民的」英雄やスターをつくりあげた
 2) 1961〜81年(昭和36年〜56年) テレビの普及と映画産業の衰退
   テレビ・タレント、スターの世俗版としての《アイドル》の時代。テレビショーの発展期。
   テレビの多様化がプロスポーツ、選手、アイドル歌手、コメディアンなどの多様な有名人をつくりあげた。
   視聴者参加型番組では一般人が有名人に変わることも・・・
         ─誰もが有名人となる潜在的可能性の時代へ─
 3) 1982〜現在(昭和57年〜現在) ビデオ機器とメディア・ミックスの時代
   大量に流通する有名人の時代 
   有名性の拡大にともなう意味の転換 
   より小さなメディアによるプチ有名人の登場

3. 印刷技術,画像技術,画像電送技術の発達

明治〜戦前期におけるマスメディアの進化は,印刷技術,画像技術、画像電送技術の発達を抜きには語れない.表2はそれらの技術の発達をまとめたものである[9].八巻俊雄(2006)によれば,広告に写真を使用した第一号は,屋外広告では明治17年(1884年)のたばこ屋岩谷松平の看板,新聞では明治38年(1905年)の中喜ネル店の広告,雑誌では東京編物講習会の広告が最初という[10].第一号の頃はまだまだイラストのほうが綺麗であったため,写真を使った広告は一般的ではなかった.たしかに明治21年の新聞紙上初の報道写真(図3)からもそれが窺える.また,報道写真は即日掲載できたわけではない.速報性は写真電送が可能になる昭和3年を待たなければならなかった.この時代は絵はがきも情報メディアとしての役割を果たしていた.「大正から昭和初期にかけて、どこかで地震や大火、洪水や津波といった災害が起こるたびに、その惨状を記録する絵はがきが販売された[11]」.

表2 印刷技術,画像技術,電送技術の発達 (注) 印刷博物館図録 引き札,および,大正レトロ昭和モ
ダンポスター展 印刷と広告の文化史─などをもとに作成

万延元年(1860年) プロシアより将軍徳川家茂に手引き石版印刷機献上
明治初期 墨一色の石版術が始まる/米国や英国から印刷機を取り寄せる/小西屋六兵衛店で写真および石版材料の取扱開始
/外国人技術者招聘,紙幣寮刷版局で石版作業を研究
明治10年(1877年)頃から 色刷りができるようになる
明治13年頃(1880年)から 参謀本部で地図製版に写真製版法を利用する研究開始
明治17,18年(1834,1835年)頃より 各種製版印刷技術が発達
明治23年(1890年) 陸地測量部員がドイツ留学を終えて帰国.亜鉛石版術(金属平版)を紹介
日清戦争中(明治27〜28年/1894〜1895年) 写真網目版等が盛んになる.終戦後は写真版が大流行
明治29年(1896年)日本で初めての三色版印刷物が雑誌に掲載される ※クルツの三色版法
19世紀末 写真網目版の発達.三原色網目版が盛んになる
大正初期頃から 金属平板が全盛になる.版輪転機の使用
大正2年(1913年) 国産のオフセット印刷機製作
大正6年頃(1917年頃)平板はオフセット輪転機で印刷されるようになる
大正9年(1920年) 朝日グラフヰックにHBプロセスによる多色刷りが掲載される
昭和初期には,直刷り平板はほぼすべてオフセット
昭和3年(1928年) 写真電送実用化第一号.昭和天皇の即位儀式を京都から東京に電送
昭和11年(1936年) ベルリンオリンピック.ベルリン-東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾る

   
図3 日本新聞史上初の報道写真
(注) Yomiuriオンラインより転載.明治21年8月7日
掲載,磐梯山噴火直後の猪苗代湖
図4 世界初の実用ファックスこと「NE式写真電送装置」
(注) COBSオンラインHPより転載(写真提供は逓信総合
博物館)

4. 有名人広告の近代史

八巻(2003)は,戦前の新聞における「三大広告」と言われたものとして薬品,化粧品,出版広告をあげている[12].電通100年史にも,創業初期(明治30年代半ば)化粧品,薬品等の軟派[注]の広告主を顧客するなどの努力が実り,経営が軌道に乗った旨の記述がある[13].[注] 対して官庁,銀行,保険会社を“硬派”としている

今回の調査では薬品と化粧品を取り上げた.薬品についてはサロメチール,化粧品についてはクラブ化粧品(中山太陽堂,現クラブコスメチックス)を対象に広告の変遷をたどった.どちらも歴史が長く,かつ現代まで続いている商品であり会社である.その商品の特性上からサロメチールはスポーツ選手,クラブ化粧品は女優と関連が深い.今回の調査対象として極めて適切であると考えられた.

4.1 スポーツ選手と広告,サロメチールの広告を例に

サロメチールは1921年(大正10年) 田邊元三郎商店(現田辺三菱製薬)より神経痛・リウマチの治療薬として発売された外用消炎鎮痛剤である.主成分サリチル酸メチルが筋肉痛にも効くことから,スポーツ選手をはじめとして多くの人々の間でも利用が広がり,今もなお幅広い人々に愛用されて続けている.2003年(平成15年)より佐藤製薬が販売している[14].

    図5 サロメチールの広告の変遷 大正〜戦前
(注) 東京田辺製薬社史より抜粋,転載

【解説】参考:東京田辺製薬社史

大正から戦前 @ 初めての新聞広告(大正13年) B 日本初の電送写真成功を記念してサロメチールの広告 を電送(昭和3年) C スポーツ選手の間で利用が広がる(昭和6年).その後 「暁の超特急」と呼ばれた陸上選手,吉岡隆徳も愛用して いることがマッサージ医師らによって紹介されたりした. F 登山愛好者に訴求対象を絞った広告(昭和8年)  「山へ!サロメチールと地図だけはお忘れなく」のコピー 戦後 I ジョー・ディマジオ歓迎の宣伝カー(昭和25年) K 店頭向けポスター(昭和39年) L ラジオ(昭和40年から) CMソング(昭和45年) O 車内中吊りポスター(昭和51年 モントリオールオリンピッ ク壮行演技会) R 東京ドーム フェンス広告(昭和63年〜)

図6 サロメチールの広告の変遷 戦後〜平成 (注) 東京田辺製薬社史より抜粋,転載

スポーツ選手本人が明らかな広告塔(推奨者)として登場するのはいつからだろうか.私の調べた限り戦前のサロメチールの広告の中に「有名選手が商品とともににこやかに登場するタイプの広告」は見当たらなかった.広告の中にイラスト等で描かれたスポーツ選手の姿は見られるものの、特定の個人ではなく図案家が創作したスポーツ選手と思われる.「暁の超特急」と呼ばれた陸上選手,吉岡隆徳がサロメチールを愛用していることがマッサージ医師らによって紹介されたことはあるが,現在のように選手本人が明らかな広告塔(推奨者)として登場したわけではなさそうである.

くすりの道修町資料館[注]において,他社製品にも範囲を広げ各種薬品の広告を調査したところ,昭和15年の「ネオネオギー」(滋養強壮剤と思われる)の広告に相撲の双葉山が腕組みする姿(網点写真と推定される)が見られた.さらにもう一つ,これも力士を使った滋養強壮剤の広告盾が存在した.この盾については戦前のものであることはほぼ確実であるが,詳細な年代は不明である.使われている力士も特定の個人なのかイメージとしての力士なのか定かではない.[注] 大阪船場・道修町は豊臣秀吉の時代に形成された薬種屋の町であり,現在も多くの製薬会社が本社,支社,営業所をこの町に置いている.大塩平八郎の乱や第二次大戦の戦禍をまぬがれたため,現在に至るまでの史料が多く残されている.

山口誠(2003は次のように指摘している.「特定のスポーツ選手が発揮する『有名』性は、スポーツという近代的な時間競技と、放送という二十世紀のコミュニケーション様式が出会い、溶け合った地点に現れた、いわば放送時代に特有のものである。それは、新聞や雑誌などの放送以前のマス・メディアや、現時点でのインターネットでは観察できない[15]」.

山口の説をとるならば,各種競技の選手たちが有名人として本格的に広告に登場するのは,やはり戦後ということになるだろう.

ラジオ放送の開始は大正14年(1925年)である.大正15年日本放送協会(NHK)が設立され,昭和2年(1927年)には全国中等学校野球大会(甲子園)の中継が開始され,昭和3年には大相撲中継やラジオ体操放送が開始されているが,スポーツ中継はごく限られたものであった.日本放送協会の独占放送体制であったため日本(内地)では広告放送が禁止されていた[16].民放ラジオが開局するのは昭和26年(1952年)のことである.

テレビ放送は昭和28年(1953年)2月に日本放送協会が開始.同年8月に初の民放テレビである日本テレビが開局している.「テレビ受信契約数は、55年16万5000(世帯普及率0.9%)が、皇太子・美智子妃のご成婚でミッチー・ブームを呼んだ59年の414万を経て、64年に1713万(普及率83%)へと、十年間で実に104倍に増え、文字通り爆発的な普及の広がりを見せた[17]」.

図7 電気製品普及率

(注)文部科学省HP 昭和55年版科学技術白書より抜粋,転載

4.2 女優を起用した広告の変遷−クラブ化粧品の広告を例に

クラブコスメチックスは,明治36年(1903年)中山太一が中山太陽堂として創業した老舗の化粧品会社である.明治39年(1906年)発売のクラブ洗粉は大ヒット商品となった.華やかで大胆な広告を輩出することでも知られ,この社の広告の数々は印刷・美術・デザイン・広告史のみならず近代史や女性史の分野でも貴重な史料である.商標の双美人は少しずつ変化していったが,大ぶりの花笠をいただいた最初の双美人のモデルは前田利為侯爵の夫人I子である(図9).

   
図8 前田侯爵夫人とクラブ洗粉のパッケージ 図9 川上貞奴
(注) 文化のみち二葉館案内書より転載

この社の広告写真の変遷をたどると,明治時代から大正時代にかけて美人写真と呼ばれる広告群が見られる.図10の百貨店用広告もその一例である.登場する美人の個人名はほとんど判明していない.

一方で特定の個人が登場する広告も数多く見られる.登場するのは華族夫人や令嬢,東京市長夫人などの上流夫人,パリ万博で好評を博した女優の川上貞奴(図9)などである.芸妓は当時絵はがきのモデルとしても頻繁に登場し,広告に起用する会社もあったが,クラブ化粧品では創業者中山太一の方針により芸妓は原則として使わなかった.例外的に登場させる場合でも,赤坂の春本萬龍(図11)など超一流に限った[18]という.

   
図10 百貨店用広告
(注)「百花繚乱」クラブコスメチックス百年史より転載
図11 春本萬龍が登場する広告
(注)「百花繚乱」クラブコスメチックス百年史より転載

大正末期,歌劇や映画(キネマ)が大衆的な娯楽として急速に広がり,この頃から歌劇女優やキネマ女優などが広告塔としてさかんに登場するようになった.これはクラブ化粧品だけはなく他社の広告にも見られる現象である(図12).「美貌で鳴らした人気女優たちは,次々と化粧品会社等のキャンペーン・ガールに起用され,ますますその人気と知名度を上昇させていった[19]」.

先にスポーツ選手の広告を検証したが,広告塔としてのスタートは女優のほうが四半世紀以上も早いようである.

雑誌「主婦之友」昭和3年1月号の掲載広告の中に次のようなものがある.洗顔クリームの広告と思われる.

現今は宣傳(廣告)の世の中である。都會地の發賣者は、報酬さへ出せば、醫學博士でも醫學士でも、或は女優でも名士 でも、その廣告宣傳に名前を借りられる便利な世の中である。[……]本品の發明者たる田中工學士は、所謂發明家肌 の變り者で、他品の如く、廣告本位で文章を飾って販賣する事や、醫師や女優の名義を借りてまで讀者の信用を強ふる 事は不快だからといふ注意を發賣元に示されるので、自然と、こんな理屈張つた紹介文を掲げる次第であるが[20]

いささか斜に構えた宣伝文句であるが、当時,女優を起用した広告が氾濫していたことの傍証といえよう.

図12 大正末期から登場した歌劇,キネマ女優ポスター
(注)大正レトロ昭和モダンポスター展 印刷と広告の文化史より転載

5. 考察

私たちは会ったことも話したこともない人物の名前や顔,時には詳細なパーソナリティに至るまで,いつの間にか記憶している.石田(1998)は次のように書いている.

『有名人の事典』(森岡[1994])には政治・スポーツ・芸能などのさまざまな分野の有名人の名前が1800人分収録 されている。あるいは、『TVスター名鑑'98』(TVガイド臨時増刊[1997])にはスター、タレント、文化人、アナ ウンサー、シナリオライターといったテレビの出演者リストが3500人ほど並ぶ。おどろくべきことに(あるいは、 当然のこととして)、私たちはその多くの名前を既に知っている。[21]

私も同様のことを試みたが,結果は石田氏とほぼ同じであった.有名人の歴史はたかだか150年である.近代以前の人たちは「面識ある人+α」だけで生きていたことを思うと,人間の記憶容量の大きさに驚嘆すると同時に,「これは人類史上初の事態だ」とおそれを抱かずにはいられない.

有名人は自然に発生したのではなく,近代社会の中で生まれ育ってきたものである.150年の間に有名人の種類は多様化し数も増え,次第に大衆化してきている.いわば「有名人のインフレ」とでもいうべき現象がとどまることなく進行しているのだ.

たとえばオリンピック選手を考えてみよう.日本の初参加は1912年(明治45年・大正元年) のストックホルム大会である.この時の参加者は男子陸上選手2名のみであった.その後は増加していくが,東京オリンピック以前は200人を超えることはなかった.東京オリンピック後は約250人から350人で推移し,夏季大会と冬季大会が2年間隔で交互に開催されるようになった頃に一段と増加.直近の大会では夏季冬季の合計で約450人がオリンピックに参加している(図13).

図13 オリンピック参加選手の推移 (注)日本オリンピック委員会HPをもとに作成

有名スポーツ選手のすべてがオリンピック経験者というわけではないが,オリンピック報道を契機に有名選手が出現することも事実である.ことにテレビ普及以降のオリンピック選手は,多くの人の頭の中にカラー映像で記憶されている.印刷された名前と限られた白黒写真だけでオリンピックが報じられていた時代との差は歴然である.

有名になる条件についての指摘もある.阿部潔(2003)は有名選手に必要とされる条件について,競技内在的な美しさ(競技における華麗さ/美しさ/優雅さ)のほかに競技外在的な美しさ(キレイ/カッコいい/カワイイ),加えて近年はキャラクター(人となりとしてオモシロいこと)も求められているのではないかと指摘している[22].

念のため言うが,オリンピック選手の価値が低下したと言いたいのではない.競技の高度化および競技人口の増加により代表選手になるための競争は昔より熾烈であろう.ずば抜けた才能に加えて大変な努力が必要であることは私も承知している.であるからこそ,今のオリンピック選手と有名性のあり方に疑問を抱かざるを得ない.全盛期に過剰なほど(時にはプライベートなことまで)マスコミ報道され,極めて高い有名性を獲得してしまった選手たちのその後の人生はどうなるのだろうか.一般的にスポーツ選手は比較的若い年齢で現役を引退する.スポーツ選手の現役引退とそれに伴う人生設計の問題はスポーツ社会学等の分野においても重要な課題である[23].

現在も多くの企業がスポーツ選手とスポンサー契約等を結んでおり,起用された選手たちは商品の推奨者として活躍している[24].先に取り上げたサロメチールも現在はゴルフの横峯さくら選手を広告に起用している.こうした一般企業の宣伝広告活動を悪いというつもりは毛頭ない.私が指摘したいのは,そうした一般企業の広告宣伝活動にまぎれて,ネズミ講やマルチ商法などの主宰企業が極めてよく似た宣伝活動を行うこと,そして,有名人の一部にそうした問題商法の広告塔になる者が存在することである.

有名性のインフレという観点からすれば,芸能人やタレント,その他の有名人の場合はさらに憂慮すべきである.スポーツ選手は誰でもなれるわけではないが,芸能人やタレント,その他の有名人では少々事情が異なる.たとえば作家の林真理子の20歳代の頃のエッセイに次のような文章がある.

私が子どもの頃は、このふたつを手に入れた女性って傑出した人が多かった。[……]手に入る女と、手に入らない女と の間にかっきりと境界線が張られていたもんね。[……]だけどいまはそうじゃない。お金と名声を手に入れる女とい うのは、CMにちょっと出てとか、男遍歴の本を書いてとか、小粒になったぶんだけものすごく簡単っぽいじゃない。[25]

この文章が発表されたのは1980年代初期である.林氏の子ども時代から20歳代までは「テレビが普及し誰もが有名人となる潜在的可能性の時代」とぴったり重なっている(表1参照).

6. むすび

今回は,各種情報技術に支えられたマスメディアの発達と有名人の関係を概観した上で,日本における有名人広告の成り立ちと変遷を検証した。有名人は近代社会の中で作り上げられてきた存在であり,有名人広告もまたその流れの中にあることが明確に示された.問題商法の広告塔問題とは,そうした素地を背景に誕生したものである.「有名人が関わっていたから信じた」と嘆く問題商法の被害者を笑うことできない.なぜなら,その素地は私たちの中にも厳然と存在するからだ.

思うに,「何を信じるか,誰を信じるか」の判断はもともと難しいものである.様々な要因を考慮し,いろんなケースを想定しても失敗することは多々ある.情報が氾濫し価値観も多様化した時代に生きる私たちが「有名人=信頼できる人」という簡便な判断方法(ヒューリスティック)に頼りがちなのは人間心理の面からも頷けることである.

有名人は全体から見れば依然として少数派であり稀な存在である.また,ほとんどの場合,何らかの分野において人並みはずれた能力を持っている.一般人が有名人を崇拝しその信奉者となる現象は,多少の有名性インフレが起きても続いていくだろう.

豊富な画像情報や優れた映像伝達技術により,私たちは有名人の名前だけでなく,その姿かたち,声,動作,ファッション,時にはその有名人によって与えられた感動のシーンに至るまで,知らず知らずのうちに記憶している.画像や映像,オーディオを通して得られたこれらの記憶は,私たちの人生の楽しみである反面,悪用されるとその被害も大きい.問題商法は人の心の隙を突いてくる.このことはぜひとも認識すべきである.

また,有名人と呼ばれる人にも私は言いたい.よい企業,悪い企業を見分けることはたしかに困難なことであろう.しかし,インターネットの普及により,問題商法について具体的で即時性のある情報入手が可能になっている面もあり,一般消費者の中にも情報収集の努力をする人が増えている[26].もはや「知らなかった」ではすまされない時代なのだ.「公的領域において、ある一群の人びとは他の人々よりも大きな存在であり、広範囲な活動とより大きな影響力を有している[27]].有名人であることの社会的責任を今一度考えていただきたい.

この調査研究にあたり資料提供とアドバイスをいただいた次の皆様に深く感謝申し上げます.(財)石川文化事業財団お茶の水図書館,くすりの道修町資料館,(株)クラブコスメチックス文化資料室,Font Museum書体博物館主宰・長村玄氏,印刷技術者・画像電送関係者の皆様,京都大学大学院人間・環境学研究科 小山静子教授ならびに研究室の皆様,塩見香保里氏.

文献